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「好きの重なり」の外側

あんまり最近はメンタルの調子良くなくてやってないんですけど、NTRだの変態性癖だのについて、discordまたはTwitterスペースで人と話すみたいなのをよくやっていました。楽しいし勉強になるんですよね。

で、特に初対面の人とは、どういうNTRが好きなんですか、という話に必ずなるわけです。お互いが好きなもの、苦手なものの確認作業をするわけですね。趣味が合わない可能性もまあまああって結構緊張が走るわけですが、大抵は相手もマゾで、結構似たものが好きでお互いマゾですねみたいな話に落ち着くわけです。

好きなものが一致すると本当に楽しいですし、少し好きがずれていてもそれはそれで、差異について話し合うのも楽しいことです。

好きのベン図

好きのベン図

図に表すとこう言う感じで、お互いに好きがあって、重なる領域があるとするわけです。そうすると下のように表せるかな。

好きのAND

好きのAND

自分はこれを好きのANDと呼んでいますけど、もっとわかりやすい言い方が普通にあるかもしれない。まあ人と話している時にこの図が頭に浮かんでいます。

この重なる部分がニッチであればあるほど話が楽しくなりますよね。表で語ることなんて到底無理な変態性癖だったりしますから。

重ならない部分について話し合うのもエキサイティングだったりします。自分の苦手(or無関心)なジャンルについてあえて語って、相手のプレゼンを受けてそのジャンルとの距離が縮まることがあったりします。

自分は好きじゃないけど

自分は好きじゃないけど

これはこれで、結構歩み寄る必要はあって、例えば絵描きなら一度描いてみるとかは大事な気がします。描くことが理解のプロセスの一部だったりしますから。

ただ、少しANDの世界が少し手狭なのかもしれないと感じることもありました。本当はお互いこのジャンルのこのサブジャンルが好きなんだね、とどんどん詳細化していくんですが、でもジャンルって結局表面的なものだと思うのですよね。

図だと、先ほどのベン図は平面的な捉え方で、実際には立体構造があるんじゃないかと。

マゾ心を満足させてくれる作品ならなんでもいいすね

マゾ心を満足させてくれる作品ならなんでもいいすね

つまり、好きの輪の中にも、特に好きな作品とかがあって、それは奥深くにある自分の言語化できていない欲求を満足させてくれるところがあるわけですね。それが自分の場合はマゾ心であって、それがどんな形であるかを知りたいわけです。

ジャンルで区切るのはあくまで便宜上であって、あるジャンルに該当すればそれが全て好きってわけではないです。好きなジャンルの外にも、マゾ心を満足させてくれる作品があるかもしれない。そういう気持ちを持っておきたいと思っているんですね。

本当に力のある作家は、ジャンルを貫通して刺してきますから、そういった作家と出会えることはとても大事なことだと思っています。

可能なのかはわからないですけど、お互いの嫌いなジャンルについて考えてみたいみたいなことも思っています。ここでは「嫌いの海に出発する」みたいな表現を使うことにします。

あえて嫌いの方面にいくんすか、マゾか?

あえて嫌いの方面にいくんすか、マゾか?

一人ではしんどいジャンルを、仲間と追っていくというか、興味ない美術館に二人で行って作品についてあーだこーだ言うような感じで、嫌いなジャンルに旅立つのも面白いのではないかと思うわけです。まあ「なんの成果も得られませんでした!」になる気はしますが。

「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」というゴム男の名言(※要出典)がありますけれども、好きだけを手掛かりにするのもまた手狭な予感がしたんですよね。まーでも普通にニッチな好きについて語る方が楽しいかもしれないです。自分純愛ものが苦手だけれども、純愛の話ばっかりはやっぱりしたくないか。あくまで、こういう可能性があるなというお話でした。