「欲望を欲望する」というキーワードがある。ちゃんとラカンの著書を読んだ訳ではないので本当ににわかだけど、寝取られを考えるには外せないワードかなと思う。
ニュアンスを汲むのに「なぜコカ・コーラは完璧な商品なのかについて語るジジェク」はよい動画だ。動画の中では、「コカコーラのパラドックスとは、喉が渇いて飲んでみると、飲めば飲むほど喉が乾くということ」と説明している。「何かを欲望する」ということは、思ったより込み入っている。自分には別に欲しいものがないのにAmazonを彷徨っている時があるが、頭を欲望で満たしている時間が心地よいのだ(そして買って届いた後には冷めてしまう)。
これは欠乏に依存していると言い換えてもいい。
ストーリーテリングのテクニックとして、キャラクターに欠乏を設定するとよいと言われる。何かが欠落した主人公やキャラクターが、それを埋めるために突き動かされる。それが物語を動かす引力として作用する1ということだ。欠落は別にエンディングで解決されなくて良く、あくまで初動のための引力にすぎない。その引力に引っ張られて、明後日の方向に終着するのが、物語なのだろう。
それで芋粥の話である。
「芋粥」は平安時代の「五位」という役人の話で、五位は腹一杯「芋粥」2を食べたいというささやかな夢を持っている。しかしたまたま同席した同僚に「飽きるほど食べさせてあげよう」と言われご馳走になり…というストーリーだ。現代風に言えばバケツでプリン食べてえみたいな感じになるだろうか。
最終的には女抱いて芋粥食って勝ち卍で終わりで、どうでもいいことこの上ないストーリーなのだが、芥川版の芋粥では結末が変わっている。
五位は鍋いっぱいの芋粥を目の前にして食欲を失ってしまうのだ。
五位にとって、欲望を持ち続けること自体が、それを得ることよりも大きいものだったということだ。
で、寝取られでの欲望の取り扱いについて考える。
「何かが起きなくてはいけない」のだろうか?主人公の目の前でセックスしているところを見せつけられるというシーンは必ず必要なのだろうか。
「性的な記号をパートナーが纏う」ことが抜きどころなのか?完堕ちガングロ刺青乳首ピアスしてた方が良いのか?
欲望が満たされる、その半歩前の瞬間が永遠に続くことこそが、本当の望みなんじゃないのか?